命令を下す人がリーダーではありません。リーダーとは、それが課長であれ部長であれ、部下を通して成果を出す人のことを指します。そのため、たとえマネジャーという肩書きを持っていたとしても、部下を通して成果を出せない人は"リーダー"と呼べないのです。マネジャーが必ずしも"リーダー"とは限らないといわれる所以(ゆえん)です。
ただし、リーダーシップスタイルは十人十色です。「オレについてこい」とぐいぐい引っ張っていくエネルギッシュなリーダーもいれば、情熱を内に秘めた寡黙なリーダーもいます。
異なる考え方や、未熟な部下の意見に辛抱強く耳を傾けるといった度量の広さで、人を魅了するリーダーもいます。しかし、さまざまなリーダーシップスタイルがあったとしても、リーダーには必ず果たさなければならない共通した3つの責務があるのです。
第一の責務とは、「ベクトルを合わせる」ことです。部下が10人いれば、10人の考え方があります。100人いれば、100通りです。育った環境も異なれば、ひとり一人の性格も違います。
しかし、組織を統率するには、その10人、100人のベクトルを合わせること、すなわち人心の掌握が不可欠です。その「ベクトルを合わせる」上でもっとも大切なこと、それは方向性を示すということです。地位や権力にものをいわせて無理やり「強制」や「脅し」でベクトルを合わせようとしても、それは長続きしないのです。どこに向かって進むのか、あるべき姿は何なのか、方向性を示し、情報の共有を図ることで、ビジョンや理念のベクトルを合わせるのです。
中国5,000年の長い歴史には、数え切れないほどの名将たちが出現しましたが、その多くの武将が「将たるもの、いかに戦うかより先になすべきは、まず兵の心を掌握すること」とリーダーの要諦をとらえていました。これは、戦略や戦術を考えるよりも、兵のベクトルを合わせられなければ、軍を統率することはむずかしいことを示唆しています。
企業でも第一線で仕事を行うのは、リーダーたる立場の人ではなく、現場ひとり一人の感情をもった人間です。リーダーの仕事とは、部下に仕事をしてもらうことにあります。
組織的に事をなす場合、どんなに優れたリーダーであっても一人では何もできません。どれだけリーダーが素晴らしい構想を描こうとも、現場の人たちの心を掌握し、「ベクトルを合わせる」ことができなければ、動きはバラバラとなり、その構想や目的を実現させることは不可能でしょう。
それゆえ、「ベクトルを合わせる」ことこそ、人を率いる立場であるリーダーの最大の責務だ、ということになるのです。
第二の責務は、「刺激を与える」ことです。「刺激を与える」ことで組織を元気にさせたり、「刺激を与える」ことで部下のモチベーションをあげたりするのです。
たとえば、働きやすい職場の環境を整えることも、部下に権限を与え仕事を任せることも、時には危機感を感じさせる状況に追い込むことも、その行動の本質は「刺激を与える」ということに通じます。
ところで、なぜ刺激を与えなければならないのか。それは、私たち人間は他の動物と違って、何らかの知的な刺激を享受し続けなければ退化してしまう生き物だからです。人間と動物の決定的な違いがここにあります。人や組織を活性化させるには、絶えず刺激が必要です。それを考え、与え続けるのがリーダーの責務というわけです。
第三の責務は、「信じる」ことです。偉大なるリーダーは、実は偉大なる教育者です。どちらも人を育てるという共通した重責を担っているからです。
並のリーダーは、命令します。良きリーダーは、教えます。優れたリーダーは、範を示します。偉大なるリーダーは、心に火をつけるのです。部下の心に火をつけるには、心配でも、不安でも、まずは部下を「信じる」ことが出発点となります。
自分を信じてもらえぬ上司に、ついていこうと思う部下はいないでしょう。部下を信じ仕事を任せることから、リーダーとしての本当の仕事がはじまります。
「部下を統率することができない」と悩んだり、「部下が自分の思い通りに動いてくれない」と嘆くリーダーは少なくありません。そうしたとき、自分の胸に手を当てて自問自答してみるのです。
はたしてベクトルを合わせているか、はたして刺激を与えているか、はたして部下を信じているか…。人を率いるリーダーとして、これらの責務ができていなければ、自分にはリーダーの資格がない、リーダーを辞職しなくてはいけない、と猛反省すべきでしょう。これがリーダーの器量というものです。
リーダーの要諦とはつまるところ、部下に方向性を示し、部下の仕事がやりやすくなるような環境を整え、部下を信じ仕事を任せる、ということにつきます。繰り返しになりますが、リーダーとは、部下を通して成果を出す人です。すなわち人を動かすことこそ、リーダーシップの本質といえるのです。